=殉国青年塾年表=
 
愛国心と起因
昭和20年の大戦後、焦土と化した国内に於いて、占領された悲壮感漂う国民や帰還兵の惨めな姿に比べ、進駐軍の我が物顔で闊歩する態度と占領政策等に不満を募らせ、明治大の学生を中心とした「愛国心旺盛な若者」を集めて占領軍の横暴に対抗する目的で、相撲関係者で有った大元氏が民間防衛組織「殉国青年隊」を結成した。
その組織に寺岡敏夫(当塾初代)が青年時代に籍を置き活動をしていたが、その後、発起人の逝去と共に組織は自然解散した。
◎出会いと起点
昭和413月、大東塾の加藤三之輔氏(北九州・カネミ倉庫会長)との御縁で北九州市小倉南区石原町の神道・霊雲洞「眞光会」にて、笹川良一氏(日本船舶振興会々長)・頭山立國氏(頭山満翁の孫)・西郷隆秀氏(西郷隆盛の孫)及び、県内の著名人多数が集う尊皇愛国の会「観桜会」の受付を初代(寺岡敏夫)が担当をした。
その席上、自己紹介にて以前在籍していた組織名を捩って「殉国青年塾々頭」を名乗った事が当塾の名称由来で、同時に当塾の起点でも有る。
その後、西郷氏・頭山氏の両先生には当塾(殉国青年塾)の特別顧問として御着任を戴いた。
組織加盟
昭和45625日、日本最大の民族派組織で有る全日本愛国者団体会議(本部、東京、)へ、笹川氏が全愛顧問で有った関係から、九州地区へ加盟をした。
同年1125日「盾の会」代表、三島由紀夫並びに森田必勝両氏が決起した「東京都、市ヶ谷駐屯地」での自決事件に対しては、初代・寺岡敏夫も追従を仄めかす等、激しく衝撃を受けたが、当時の過激派の学生運動にも危機感を募らせていた事も重なり急速に愛国運動への弾みが駆かった。
◎体勢確立
昭和46年1月14日、当塾創立者でも有る初代が父親でも有った事から必然的
感化された寺岡 誠(長男)が同志三名と共に入門した。
又当時、福岡大学教授でも有った憲法学者の森三十郎先生より街宣車両を
御提供戴き、併せて当塾の相談役へも御着任を戴いて民族思想・唯物史観論等
の御指導を仰いだ。
◎活動の軌跡
昭和47年、沖縄での日教組大会を前に、全愛会議の空白地域で有った沖縄へ
九州地区長として初代が一ヶ月前から単身滞在。地元有識者との折衝説得にて
沖縄正義党(総裁・又吉茂夫氏)を発足。同党の協力を得て、沖縄での糾弾街
宣には多大な成果を納めた。又、同党には沖縄地区長として全愛会議へ加盟戴
き、全愛会議が名実共に全国組織と成った。
                                      
                                   
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初代 寺岡敏夫氏
加藤三之輔先生
自決前の三島由紀夫氏
情宣中の寺岡 誠氏