「ヨーロッパのスペイン・オイアーチェンに生ける伝説・神である浅井隆夫師範が訪れ指導にあたった・・・・訳:鶴田麻衣子2005.3」のインタビュー記事をもとに浅井隆夫師範を見つめた。(文:ムトウ武生)
浅井隆夫範士八段は、昭和23生まれで名古屋工業高校卒業し昭和45年朝倉邦夫師範と共に拳法会の門をくぐる。世界拳法会連盟会長の大橋千秋と浅井隆夫、朝倉邦夫は、同級生と言うことになる。「寝技の朝倉と異名をとった」朝倉邦夫については、改めてお話しするとして浅井は、朝倉、大橋とくらべ武道好きではなく朝倉邦夫に強引にやらされていた思われる。事実、朝倉は、柔道部、大橋は、剣道部に所属し武道漬けの猛稽古に励んでいたが浅井は、汗にまみれる事なく文化クラブ(溶接部?)に所属し楽しく高校時代をすごしていた。浅井は、汚い学生帽と学生服で柔道着を背にした出で立ちの強引な朝倉が好きである一方、嫌で恐れていたかも知れない。そんな朝倉邦夫も昭和54年に他界する。これで、気がゆるめるかと思いきや大橋千秋が彼のなかでクローズアップしてくる。当時、名古屋地区拳法会は、加藤修が本部長をしていたが浅井隆夫は、これを機に名古屋地区本部長に強引にさせられてしまった。それでも名古屋地区本部長を長年勤め目立たず私心がなく質実剛健・質素倹約と武士道の基本である忠孝を尊びながらナンバー10位の立場を好んで保ってきていたがまた、ここに異変が起こった。既にナンバー1となるべく権限が90%委譲されていたナンバー2の榊原清司師範が平成10年に他界したことから転機が訪れた。榊原の後任に静岡市の松永和明が濃厚であったが組織を率いる指導者としての気魂にかけて無象派層との板挟みになっていた。どうにも旧体制の整理とまとめが出来なかった。そこで噂にも登らなかったが私利私欲のない浅井隆夫が2000年に東海本部長に、また無理矢理に就任させられた。この時の浅井は、悩んで楽な道である「朽木と共に整理」の道を望んでいたが浅井に本部長就任の決断の楔を打ったのは、夫人政子さんの一言「楽になるかも知れませんが裏切り者になっては、いけません!恐れては、いけません!」であった。この一言で浅井隆夫は新体勢を一機に布陣した。朽木の整理から多くの事業をこなし、平成16年には、2004世界拳法選手権大会を開催し更には、IKKO(世界拳法会連盟)の理事に就任した。2005年3月には、スペインにおいて「生ける伝説」と称され、フランスにおいては、範士八段が授与され、世界拳法会連盟の副会長に就任した。2005年は、3月には、ヨーロッパに飛んで、5月には、ニュージーランドに指導に行き8月は、ヨーロッパの各師範との視察研究会を開催した。常に後ろには、政子夫人が「チャンスを逃しては、いけません!人のためになりなさい!」と声援を送っているからこそ成果あげて活動が出来る。座右の銘「おかげさまで感謝」何が「拳法会のため」「会員のため」「青少年の教育のため」に主眼をおき決断している。 しかし、年齢を重ねるごとに後継者育成の重要性を悟りこれを目標においている。名古屋穂波道場で子供達と武道を通し芸に遊んでいる。
The History of Kenpo Kai Shihan(2005)