年号 | 登場人物 |
主な出来事と時代背景
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B.C.445頃
今から
(2450年前)
(前期)
B.C.220年頃
(中期)
B.C.200年頃
B.C.27年頃
(中期)
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弥生土器を使っていた約600年間を弥生時代という。
1884年(明治17年)、東京本郷の弥生町(現在の文京区弥生町2丁目東京
大学構内)で、赤褐色の固い土器が発見された。地名をとって弥生式土器と
名づけた。土器を作る技術が進歩して高温でやかれるようになり、シンプルな土器が
生まれた。稲作文化が大陸から伝わってきた。木製の道具を使って耕作し、
石包丁でイネの穂先を刈り取り、きねやうすで脱穀するようになった。結局、
弥生時代は戦争の時代であった。
(土地争い)各地に有力な支配者が出現して小国家が成立した。
弥生文化では最初から青銅器と鉄器が使用されていたが、
鉄は腐食しやすいため
青銅器の遺物が多く発見されている。
稲作文化は関東・東北へ普及した。
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A.D.37年
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物部
守屋
(ものべの
もりや)
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この頃物部守屋(ものべ
の もりや)氏の主力が大和に入る。
大和朝廷成立。
当時中国人は、日本人を倭人(わじん)とよんでいた。
紀元前1世紀の日本は倭(わ)の国と呼ばれ、朝鮮半島と通行していたという。
(「漢書」地理誌)
倭(日本のこと)は100余りの国に分かれていた。倭は定期的に朝鮮半島の
楽浪郡(らくろうぐん)(今の平壌)と通行していた。
日本いう国号が用いられたのは7世紀に入ってからである。
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A.D.57年
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北九州にあった倭(わ))(=日本)の奴国(なこく今の福岡県)という小さなの国が
漢の皇帝に貢物をもってやってきました。
奴国(北九州の小国)は印綬をうけたという。(魏志倭人伝に書かれている))=
(「後漢書」東夷伝ごかんしょとういでん)(要するに漢の光武帝に貢物をして、
印綬をもらったということだ)
印綬(いんじゅ)とは、身分や位をあらわす官印を身につけるための組みひも。
(現在、役所なんかで、身分をあらわすカードを首からぶらさげているアレみたいな
もんかなー要するに通行優待券?)
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A.D.204年
A.D.266年
A.D.280年
弥生時代は
約600年間
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卑弥呼
(ひみこ)
応神
(おうじん)
天皇
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邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼が魏に使いを送る。魏の明帝は、
親魏倭王として、金印紫綬を与える。
女王は1000人の侍女にかしずかれ、宮殿の奥でくらしていたという。
命令は弟を通じて伝えられたという。
A.D.247年に卑弥呼が亡くなる.。
お墓には100人余りのじゅん死者が一緒に埋葬されていたという。
(まさに権力者・女王)卑弥呼死後、男女王に立つも乱れ、
台与(とよ)=壱与(いよ)が女王になる。(その後の歴史途絶える)
魏国との交流は何度かあったが、その後となりの狗奴国(くぬこく)がせめてきて、
大和近辺を制覇される。
邪馬台国(やまたいこく)(九州)=やまと=大和(近畿奈良)
弥生時代後期の登呂遺跡は当時の水田の代表的な遺構(昔の残存物)
である。
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