以下の事は、ある著名書家の言っていることを引用させていただいております。

   小さい頃から習字塾などに行って、ある程度書とというものに、触れてきた人も、
   さて何が良いのか、何が悪いのか、わからない人が少なからずいると思う。

   ある流派の中では、たいていその先生の書というものが、いちばん良いわけです。
   しかし、その先生の臨書を必死に繰り返し、真似するところから、いざ抜け出して
   自分なりの作品をつくっていこうとした時に、書という根底が、いまひとつ確かでは
   ないのではないでしょうか。
   それでは、書を見るために必要なことは、まずその書きぶりをなぞってみることが
   大事なのです。

   ひとつひとつの筆順を追って、ここでグッと力をこめているとか、
   ここでスーツと力を抜いている
   とかを、見ていくわけです。要するに同じ「一」の字でも、必ずしも詩文の内容の違い
      によるのではなく、人それぞれの「書きぶり」の違いがある。

   これを「同じ一の字だ」といってすませるわけにわいきません。
   そこには、大きな表現上の差があるということです。

      記述している書家が審査員としてある展示場に行った。全部で八人の審査員がいた。

   書についての審査はだいたい3分の2ぐらいについては、
      作品に対する判断が私と一致した。
   ところが、残りの3分の1ぐらいについては、「これは全然ダメだ」と思うものが、
   多数の支持を得るということがあった。この食い違いは、大半は黒と白のコントラスト
     を強調し、印象としてはなかなか鮮やかに見えるようなものでした。

   しかし、その一点一画を追ってなぞってみると、ごこかギクシャクしていて脈絡
   (つながり、すじみち)が悪く、とても稚拙(ちせつ=子供じみて、下手)であった。
   書において、重要な何かの意識が欠落しているという感があった。

   審査に先だって,どういうふうに書を見たらいいかレクチャー(書の審査基準を説き
      聞かせること)してほしいという、要望があった。だけど、それをやると、
   審査員がその言葉にとらわれてしまって、それぞれの審査員の判断がなくなってしまう。

   審査員の中には、「書の審査は扱いたくない」「美術展に書が出てくること自体間違いだ」 と、ハッキリ言う人もおられました。
 書の審査基準は?
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