吉井・山名地域(群馬)は大都会だった
   ”多胡碑” 高崎市街地から中山峠を越えて旧吉井町へ(現在は高崎市に合併)。
   鏑川(かぶらがわ)の多胡橋にさしかかると、下流沿岸に多胡碑記念館がある。
   今から、1300年前(西暦711年奈良時代初期、平城京遷都の翌年、
   権力者藤原不比等の時代。 時の左大臣石上(物部)麻呂(いそのかみの(ものべ)まろ              
   =今でいう総理大臣級。 只、国政のトップが、従前の都・藤原京の留守役に命じられ                         
   捨てられた節がある、謎を残す。)この多胡碑が設置されました。                          
   多胡郡は吉井・山名地域を範囲としていましたが、ヤマト(大和)政権の直轄地だった、
   緑野(みどの)(藤岡市)や 佐野(高崎市)などの領域と重なるという。                        
   ということは、この多胡郡はもともと中央との関わりが深い要地でした。古代の西毛は渡来人  
   (朝鮮半島・中国)がもたらした技術が古墳時代からしっかりと奈良時代まで根付いた。
   東国随一の先進地域で、大都会だったという。  平成24年4月3日(火)
 
 
 
 
 
 
                       
         

 古代群馬は大都会!!

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