賢治は質屋の長男として生まれました。家業は農民たちに金を貸し、質草に取った古着をさらに別の農民に売るというものでした。
この家業が後の賢治の心に重苦しい負担となって残りました。高等農林学校を卒業後、しばらくして花巻農学校の教諭になったときから賢治と農民との直接の関わりが始まりました。
花巻農学校内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術という科目を担当したことから、自ら農民の中に入っていくことになります。そして、担当した農民芸術の講義の内容がほぼそのまま「農民芸術概論綱要」となりました。
概論の冒頭で賢治は「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と言っています。
賢治は農学校の職をやめ、下根子桜(現花巻市桜町)の別荘で一人きりの自炊生活を始めるとともに、「本統の百姓」になるため自ら畑を耕しはじめました。
その賢治のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開いたり、器楽合奏をしたりしました。
この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、近くの村々をまわったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。
賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと試みたのです。しかし集まってくる若者を除いて、一般の農民の反応は冷やかだったと言われています。
この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年賢治が「両側肺浸潤」の診断を受け、豊沢の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げました。
宮沢賢治と童話の出会いは、小学校三年の時の担任、八木英三の話してくれた童話に感動したことに始まります。後に自ら「自分の童話の源には先生のお話が影響している」と語っています。
賢治は、15才のころ短歌を作りはじめました。入院中の看護婦との初恋、父との対立など、ことあるごとに歌っています。
高等農林3年の時に同人誌「アザリア」を発行し、短編、短歌を発表しました。
賢治の童話は、国柱会に傾倒して家を飛びだし、上京した時にもっとも多く書かれました。国柱会を創設した田中智学の「芸術を通じて道を説く、これ真の芸術なり」という文芸観が賢治の執筆活動をうながしたからとも言われています。
花巻農学校に勤務した時期、賢治は実にのびのびと振る舞いました。農学校の校歌にあたる精神歌を始め次々に作詩作曲をおこない、いくつかの戯曲を書いて生徒たちに上演させたりしました。この時期は、賢治にとって、精神的に起伏や振幅に富んだもっとも心豊かな時間でした。
この頃すでに、短歌という形式から離れることを自覚していた賢治は、口語の自由詩「心象スケッチ」を書きはじめました。常に手帳と鉛筆を持って山野を駆け回りながら心に浮かんだ模様をものすごいスピードでメモしていた、というエピソードもあります。
賢治の生涯にとって一番大きな衝撃だった妹トシの死も、賢治の作品に大きな影響を与えました。
賢治の文学作品は、生涯の前半は短歌、童話の作品が多く、後半に詩(心象スケッチ)が目立っています。その他にも数々の俳句、戯曲などもあり、多彩な賢治の面がよくうかがえます。
農民芸術概論綱要
序論
・・・・われらは一緒にこれから何を論ずるか・・・
おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事も辛い
もっと明るく生き生きと生活をする道をみつけたい
われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を束ねよう
求道すでに道である
農民芸術の興隆
・・・・・なぜわれらの芸術がいま起こらねばならないか・・・・・
かつてわれらの師父たちは乏しいながら可也楽しく生きていた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換されしかも科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れしかもわびしく堕落した
いま宗教芸術家とは真善もしくは美を独占し販るものである
われらに購うべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来たってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ藁ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
・・・・・・・・・
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こころのひとつの風物です
ただとにかく記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度までみんなと共通でもありませう
(すべてがわたくしの中のみんなであるように
みんなのおのおののなかのすべてですから)
詩集『春の修羅』の第一集の序のなかの一節
賢治は明治以来の大多数の日本の文学者と世界観を異にする。
明治以降、多くの日本人はヨーロッパ的世界観を受け入れる。そして自然を物理的化学的物質としてみる。物質ではないもの、それは人間であり、人格である。その人格を大切にせよ、物理的化学的な物質主義と人格主義的な人間主義、それが近代人の世界観であり、人間観である。そこで私は、一個の人格であるか、それとも物質の集まりかである。
こういう世界観、人生観に、賢治は否という。人間は物理的化学的な物質でもなく、人格でもない。人間は、自然の大生命のあらわれのひとつにすぎない。人間の意識といえども、自然の大生命の自己意識にすぎない。自然の大生命は、大きな流れである。その流れはいくつかのおのれ自身を見る眼をもつ。
「すべてわたくしの中のみんなであるように、みんなのおのおののなかのすべてですから」
この言葉は、むしろ一念三千の思想を思い出させる。世界は一つの大生命の流れであると共に、ひとつひとつの世界のなかに、大生命の世界がそれ自身として宿っている、すべてがひとつであるとともに、一つのものの中にすべての世界が宿っているのである。
・・・・・・・
賢治の世界観は、この世界は大生命のあらわれ、この大生命は天地自然に、山川のなかにも、植物のなかにも、人間のなかにもあらわれているのではないか。しかもこの大生命は、全体としての生命の存続と発展をはかる善なる意志をもっている。そしてこのような意志が、われわれの心の中に現に今、実在している。それが仏なのである。
法華経の中には、このような永遠の生命論が含まれている。18歳の賢治は、法華経の、とくに寿量品を身震いしながら読んだという。仏は、今もなお存在している。その永遠の生命は、今もなおいたるところに存在し、くりかえしくりかえし、この世にあらわれてくるのである。この雄大なる思想が賢治をとらえ、賢治の魂となった。
文芸読本 『宮沢賢治』 p92 梅原 猛 修羅の世界を超えて より