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大海人さまと額田が愛の歌を詠み合った。 …いいえ、表面上はこの表現は正しくないかもしれない。他の者たちの目にはきっと、それは歌の席での“余興”としか映っていなかったことだろう。 六六八年五月五日、蒲生野の地で大々的な薬狩が行われた。その後の宴の席で、酒に酔った父・中大兄が妻の一人である額田王に発した一言。 「額田よ、吾はそなたの歌が聞きたい。昔そなたと愛し合った大海人もここにおることだし、どうだ、ひとつ愛の歌でも詠み合ってみてはどうかな?」 大海人さまと額田の顔が、一瞬ビクッと引きつった。周りがにわかにざわつき始め、その様子を父は楽しそうに眺めている。 悪ふざけが過ぎる、と思った。いくら酒に酔っているとはいえ、二人を好奇の目にさらすなど…。 しかし、額田の態度は堂々としていた。 「大王さまのご所望とあれば」 額田はスッと立ち上がると、一回大きく深呼吸した。皆の視線が彼女に集中する。 「あかねさす…」 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る <万葉集巻第一・二十> (茜色に輝く紫草の野を行き、その御料地を行きながら、―まぁ、野守に見られたらどうな さいますの。そんなに袖をお振りになったりして…) 「…さすがは額田だな、いい歌だ。のう、大海人よ」 父の言葉に、大海人さまは軽く頭を下げた。その表情からは、彼の心中を察することはできない。そして、皆の視線は額田から大海人さまへと移行する。 大海人さまは意を決したように、その腰を上げた。 「それでは、額田どのの歌にお答えいたしましょう」 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも <同・二十一> (紫草のように美しいあなたが憎かったら、すでに人妻であるのに、どうしてこんなにも恋 い慕うことがあるだろうか) 「おぉぅ」と場内がどよめいた。その大胆で美しい返歌は、その場にいたすべての者の心を魅了したようだ…私と父を除いては。 私には分かってしまった。歌を詠み終え、ふと視線を落とした大海人さまが再び額田を見た時、その視線には間違いなく熱いものが含まれていた。額田もその想いを真正面から確実に受け止めている。二人が交わした歌は決して余興などではない。…そして、父もそのことに気付いている。 父の前でそんな大胆な真似ができる二人も信じられないが、それ以上に、父がこの二人に対して何も言わないことが不思議でならない。 私の中で渦巻く疑問。…あなた方が心から愛しておられるのは、一体誰なのですか…? 宴が御開きになり、皆がほろ酔い気分で各自の部屋に戻って行く。私は回廊で額田を呼び止めた。 「まぁ、讃良さま」 私のほうを振り向いた彼女はにっこりと微笑んだ。 相変わらず美しい。じきに四十になろうかというのに、その美しさは衰えを知らない。むしろ、ますます磨きがかかっているように思われた。 「先程は大変失礼いたしました。いくら大王さまのお申し付けとはいえ、正妻であられる讃良さまの前であのような歌を…」 そう言って、深々と頭を下げる。 「別に額田が悪いわけではないわ。父のご命令ですもの、断れないでしょう?…ただ、私には分からないの。なぜあの父が、あなたたちがまだ想い合っているのを黙認しているのか。むしろ、楽しんでいる節さえあるような…」 額田は「ホホッ」と、口許を押さえて笑った。 「それは仕方のないことですわ。だって…大王さまは私を“女”としては愛しておられませんもの」 ―えっ? 私は耳を疑った。父が額田のことを愛していないだなんて、そんな…。 「どういうことなの?愛していたからこそ、大海人さまから奪う形で、父はあなたを妻にしたのではないの?だから、私とお姉さまをその引き換えに…」 今から約十年前。大海人さまと額田は、人も羨むような仲睦まじい夫婦だった。二人の間には十市皇女も産まれて、まだ幼かった私から見ても本当に幸せそうだった。…それを父は引き裂いた。皆は噂したものだ。額田を自分のものとした見返りに、私と、今は亡き姉・大田を大海人さまに差し出したのだ…と。 額田は静かに首を横に振った。 「大王さまは私の巫女的能力と歌の才を愛しているのであって、私自身を愛しているわけではありません。彼にとって、私は宮中祭事の道具でしかありませんのよ。私と大海人さまを引き裂いたのも、自分が大王となった時のことを見越してのこと。それだけのことです」 額田は淡々と話した。別段、父のことを憎んでいる風でもない。それが自分の運命なのだと割り切っているのだろうか。 「額田…あなたはまだ大海人さまを愛して……いるのね?」 なぜこんな愚問をしてしまったのか、自分でも分からない。わざわざ聞かなくても分かりきっていることなのに…。 彼女は私の目をまっすぐ見つめて、きっぱりと言い放った。 「えぇ。私は今でも、大海人さまをお慕い申し上げております。多分、これからもずっと」 …息苦しいほどの視線に、私のほうが目を逸らしてしまう。これが他の女であれば、「無礼者!」と怒鳴りつけているところだけれど…あまりに堂々としすぎていて、怒る気にもなれない。敵わない、私は額田には勝てない……。 そんな私に、先程の力強い口調とはうって変わって、額田は優しく語りかけた。 「…でもね、讃良さま。大王さまが心から私を必要としていることもまた事実なのです。私は大海人さまを愛している。でも、大王さまが私を必要としてくださる限り、私は大王さまのお側を離れるつもりはありませんわ」 「愛がなくても?」 私のその問いには答えず、額田はゆっくりと歩みを進めた。私も彼女の後を歩く。回廊が二手に分かれる所で彼女は足を止め、私のほうを振り向いた。 「夫婦には、愛情以上に大切なものもありますのよ。讃良さまにもじきに分かる時が来るでしょう、なぜなら…大海人さまには讃良さまが必要なのですから」 ……私が……? 「嘘でしょう?だって、大海人さまは額田のことがまだ忘れられないのよ。そのことはあなたが一番よく分かっているはず…」 額田は両手で私の右手を取ると、キュッと握りしめた。 「言いましたでしょう、“夫婦には愛情以上に大切なものがある”って。もっと自信をお持ちになってください、あなたは皇太弟の正妃なのですよ」 自信…そんなものは、大海人さまに嫁いでから一度も持ったことなどない。私は額田の代わりでしかないとずっと思っていた。今だってそう思っている。そんな私が自信など、持てるはずもないであろう……。 「では、私はここで失礼いたします。お休みなさいませ」 私の手を離すと、額田は回廊を左に歩いていった。彼女の背中を眺め続け、姿が見えなくなると、私はゆっくりと右に進んだ。 夜雲のない空。月が朗々と部屋を照らす。 私は窓辺に腰を下ろして、月を見上げていた。額田の言葉が頭の中を駆け巡り、眠ることができなかったのだ。 ふと背後に人気を感じ、振り向くと、扉に寄りかかる形で大海人さまが立っていた。 「大海人さま…」 「眠れないのかい?」 そのまま彼は私のもとへと歩いてきた。私の隣に腰を下ろす。 「いろいろと考えることがございまして…」 「俺と額田とのことか?」 大海人さまは私の顔を軽く覗き込んだ。きっと宴の席のことで私が怒っていると思い、ここへやって来たのだろう。…別に怒ってもいないし、今さら額田との関係をどうこう言うつもりもない。私は曖昧な笑みを浮かべた。 「…お前ももう承知しているだろうが、俺はまだ額田を愛している。打算なしで純粋に愛しているのは、後にも先にも額田だけだ」 …もちろん分かっている、十分すぎるくらいに……。それなのに、胸に針が刺さるような痛みが走る。この痛みは何だというのか? 「でもな…」 そこで彼は一呼吸置く。 「俺には…讃良、お前が必要だ。多分、これから俺は朝廷内で微妙な立場に立たされることだろう。けれど、お前が側にいてくれれば、どんな困難も乗り越えられると思う。生涯を賭けて愛しているのは額田だが、俺の人生にとって必要なのはお前なんだよ」 私はハッと大海人さまの顔を見る。彼は不思議そうな顔をした。 「どうした?」 「額田も…同じことを言っておりました。大海人さまには私が必要なのだと……」 私が言うと、大海人さまは少し照れくさそうに頭を掻いた。 「…やっぱり額田には敵わないな。何でもお見通しというわけだ…」 そして、再び私のほうに視線を向ける。 「これからもずっと、俺の側にいてくれるか?」 …あぁ、やっと気が付いた……。まだ何も知らない幼女の頃に大海人さまに嫁いでから十余年、長い間私はこの言葉を待ち焦がれていたのだ……! 「あなたに…付いていきます、ずっと。絶対にお側を離れたりはいたしません…」 私の心にもう迷いはなかった。茨の道でも構わない、隣に大海人さまさえいてくださればそれでいい。大海人さまの言うとおりだわ、二人ならきっとどんな困難も乗り越えて行ける…。それは確信だった。 私は大海人さまの胸に顔を埋めた。静かに瞼を伏せる。彼はそっと私の肩に手を置いた。 月光が二人を照らし出す。寄り添う二人の影が室内に伸びる。私たちは何も語らなかった、ただ…月だけを見ていた。 どれくらいそうしていたのだろうか、東の空が薄っすらと白みを帯びてきた。 ……それは、これから二人が歩いていく前途を指し示しているようにも見えた……。 ― 結 ― |
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