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日は流れ、九月になった。 吹き抜ける風がほんのりと冷たさを含むようになり、草むらから聞こえる虫の音が夜の静寂をかき乱す。もうじき終わりを迎える壱師の赤色が、暗闇の中に不気味にその存在を示していた。 大津皇子は、依然予断を許さない天皇の健康回復を願って部屋で写経をしていたが、庭に生い茂る草木のざわめきと虫の音に集中力が途絶えてしまい、筆を持つ手を止めた。 いつもなら、このようなことはない。この程度の音なら毎日のこと、別段気に障るようなものではないはずだ。…しかし、今日は違った。落ち着こう落ち着こうと思うほど、あらゆる音が騒音となって彼の脳裏に執拗に入り込んでくる。 まさか、父上の身に異変でも……? そんな考えがふと頭の中を過り、慌てて首を左右に振った。 …違う、父上は必ず良くなる。集中できないのは、自分が人間として未熟だからだ。 少し疲れているのかもしれないと、大津は筆を硯の横に置いた。 天皇はまだ生きていた―そう、“まだ”。もう少し正確な表現をするならば、大后の献身的な介護により「生かされている」といった感じであろうか。ともかく、いつ亡くなってもおかしくないような状態ながらも、天皇はまだ生きていたのだ。 正直、大津は仏教にはあまり興味がない。心の隅に、仏教に対して懐疑的な思いが燻っている。それというのも、彼は「運命など仏に縋るものではない、運命は自分の手で切り開いていくものだ」と考えていたからだ。そういった意味では、この時代にしては革新的な考えの持ち主といえよう。 そんな大津が写経を始めたのは、他でもない、仏教に深く傾倒している父を思ってのこと。この世で一番尊敬し、また誰よりも自分を愛してくれている父のため、彼は経典を写し書くことにしたのだ。しかし、毎日経典に触れているうち、少しずつではあるが仏の教えが理解できるようになっていたのもまた事実であった。 思えば、もう二時間もずっと写経をしていたのだ、疲れるのも無理はない。軽く伸びをして、体をほぐす。大きく溜息をつくと、少し頭がすっきりしたような気がした。 気を取り直して、再び筆に手をかける。…すると。 「大津皇子さま」 幼少の頃より大津に仕えている老臣が、扉の向こうから恭しく彼の名を呼んだ。 「なんだ?」 顔も上げぬまま返事をし、筆を持つ手を紙の上に移動する。 「天皇さまと大后さまがお呼びでございます」 その言葉に、大津はようやくその顔を臣の方に向けた。 「えっ…!? 今、何と……」 思わず大津は上ずった声を出してしまった。それくらい、たった今彼の耳に飛び込んできたものは衝撃的なものだった。 天皇は床に伏せたまま、生気のまったく感じられない虚ろな瞳だけを大津に向けて、しかし、はっきりとした声でもう一度繰り返した。 「皇位をお前に譲ろうと思う」 大津が天皇と面会するのは、約一月ぶりであった。たとえ近しい親族であっても、大后以外は頻繁に会うことは許されなかったのである。それは多分、自分の弱った姿など見せたくないという天皇の自尊心と、そんな天皇の心のうちを察した大后の計らいによるものであろう。 にもかかわらず、天皇が大津を自室に呼んだ。よほど大事な話に違いない、大津は幾分緊張した面持ちで天皇の部屋へと入室したのであるが、入った瞬間ハッと息を飲んだ。そこにあったのは、一月前よりもさらにやつれ細った父の姿であった。 …あぁ、父上…、なんとお労しい……。 溢れ出そうになる涙を、グッと堪える。 そして、大津が悲しみに打ちひしがれているまさにその時、天皇の口から思いもよらない台詞が飛び出したのだった。 「大津よ、俺は皇位をお前に譲ろうと思っている」―と。 部屋の空気がピン…と張り詰める。 大津は、いつもより自分の脈が速く打っているのを感じながら、頭の中で必死に天皇が言ったことの意味を考えた。だが、どう考えても、それが指し示すことはひとつしかない。 ……僕が……次期天皇……? 「し、しかし父上…日嗣皇子は草壁でございます」 そう、既に天皇と大后の息子で大津の腹違いの兄・草壁皇子が、五年前の律令編纂の詔に合わせて日嗣皇子に決められていた。本来であれば、大后・讃良の姉である大田皇女が正妃になり、その息子の大津が日嗣皇子となっていたはずであるが、その大田は大津が幼い頃に亡くなっていた。讃良が正妃となった今、草壁は誰もが認める正当な後継者である。 だが、天皇は弱々しく首を横に振った。 「あれは…駄目だ、気が弱すぎて何ひとつ自分で決められない…。優しいのはあいつのいいところだが、政治をする上ではあいつの優しさは邪魔なものでしかない。政治に必要なのは…大津、お前の頭脳と決断力、そして生まれながらにして持ち合わせた権力者としての素質だ」 「ですが…」 天皇がそう言っても、大后が許すはずがない。大津は不安げな視線を、先程から一言も発せずに無表情のまま座っている大后に向けた。 「このことは讃良も了解済みだ、心配することはない」 「――え?」 驚く大津に、彼女は表情を変えないまま小さく頷く。 天皇は、思うように動かない右腕を精一杯大津の前に差し出した。慌ててその手を握った大津であったが、そのあまりの細さに衝撃を隠しえなかった。 …本当にこれが父上の手なのだろうか…?遠い昔、剣の名手であった父上にその使い方を教えてもらった時、“早く父上のような腕になりたい”と思ったほど、太く逞しい腕であったはずなのに……。 「頼む、大津。天皇として俺が発する最後の勅として聞き入れてくれ」 「父上…」 “天皇の勅”とあれば逆らうわけにはいかない。およそ納得できるものではないが、ここは天皇を安心させるためにも肯定の返事をしておいたほうがいいだろうと、大津は判断した。 「…分かりました……」 今にも消え入りそうなほど小さな声であった。 暗く長い廊下を、大后と大津は黙って歩いていた。 ふたりの間に流れる空気は、決して心地のいいものではなかった。天皇の容体、天皇の言葉、すべてが大津の心に重く伸しかかる。多分、大后の心にも…。 居た堪れなくなり、大津は大后に話しかけた。 「叔母…いえ、大后さま。…父上はもう……」 「その先は言ってはなりません、大津」 大后の強い語調に、大津はハッと口を噤む。 「たとえ皆が駄目だと思っていたとしても、誰かが“大丈夫”と言えばそれは大丈夫なのです。言葉に思いをのせて発すれば、それは真実となって言われた人の身に影響してしまう。…あの人は大丈夫です、これが真実よ」 それは、大津に言い聞かせるというよりは自分に言い聞かせているようだった。大后の心中を慮って、大津はこの話はもうしないことにした。 またしばらくは無言で歩き、大津は躊躇いながら口を開いた。 「あの…草壁は知っているのでしょうか?今日、天皇さまが言われたこと…」 大后は歩みを止め、少し悲しそうな顔で大きな溜息をつくと、大津のほうを振り返った。 「いいえ…まだ知らないわ。大津…お願い、このことはまだ草壁には言わないでほしいの。あの子が心の底では皇位など望んでいないのは、私とて分かっています。それでも、日嗣皇子である自分ではなくあなたが次期天皇に決められたと知れば、さすがのあの子も傷つくことでしょう。だから、大海人さまが自分の口から伝えるまでは、草壁には…」 その必死な様子に、大津の心も痛む。吾が子を思う母としての大后の姿がそこにあった。 「ご安心ください、大后さま。僕の口からは決して言いません。僕だって、傷つき悲しむ草壁の姿は見たくない。彼は僕の大切な兄であり、同時に親友なのですから」 それを聞いて、大后の顔がふっと柔らかくなった。 「ありがとう…ありがとう、大津」 そんな大后の姿を見て、大津は一抹の寂しさを感じた。…それは、母親のいる草壁がとても羨ましく思えたからであった。 大津は部屋に戻ると、写経の続きをしようと机の前に腰を下ろした。墨を磨り直し、筆をその中に浸す。…だが、もはや文字を書く気にはなれなかった。 …母上…、一体僕はどうしたら…。本当に僕が天皇になっていいのでしょうか……? 心の中の遠い面影に問いかけてみても、答えは返ってこない。深い溜息が漏れる。 ………… 何か聞こえたような気がして、思わず顔を上げて辺りを見回す。しかし、誰もいない。相変わらず、草木のざわめきと虫の音だけの夜。 …いろいろあったせいで少し気が滅入っているのかもしれないな、今日はもう休むとしよう。 大津はゆっくりと立ち上がり、床へと移動した。 ……大津…… |
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