御簾が下ろされた窓から、強い風が吹き込んできた。
 中にいた女の髪が、その風で少し乱れた。

 彼女は窓のほうに顔を向け、それからゆっくりと立ち上がった。窓へと向かって歩みを進め、縁にそっと右手を掛ける。
 御簾越しに見上げた空には、月が輝いていた。満月にはまだ早い、左側が少し欠けている。寸分の霞もない明るい黄金色が地上を照らす。
 夏の月だ、と女は思った。真冬の冴えた白い月は悲しみを増大させるが、夏の月は傷つき疲れた心を慰める。今の彼女には、その温もりが嬉しかった。

 女がいるのは殯宮。九ヶ月前に、彼女の夫が崩御した。その名を訳語田(おさた)王子といった。女の名は額田部(ぬかたべ)。
 夫が亡くなったばかりの頃は、毎日のように泣いて過ごした。それでも、三月も経てば悲しみも癒えるだろうと思っていたが、世間と隔離されたこの宮で大王の魂と触れ合っていると、生前の幸せだった日々がふとした瞬間に思い出され、ますます悲しみが増していった。そして、いつからか、悲しみを紛らわせる手段として彼女は月を眺めるようになったのである。


 「今宵の月はいかがですか?大后さま」
 窓の外から男の声が聞こえた。額田部は特に驚きもせず、月を見上げたまま答える。
 「そうね、明るくてホッとするわ。早いものね、あの人が亡くなったのは秋になったばかりの頃だったのに、もう夏…」
 そう言って悲しげな瞳になる額田部を、男はただ黙って見つめている。

 男は三輪君逆(みわのきみさかう)という。殯宮の警護を任されており、訳語田が存命中は彼の寵臣であった。
 とはいえ、一介の家来がそう気安く王家の人間に声をかけられるものではない。服喪の儀が始まったばかりの頃は、お互いの声を聞くこともなかった。額田部は亡き大王を偲び、逆は宮を守る。それが二人の仕事だったから。
 しかし、時が経つにつれ、外界と隔てられた空間に一人置かれた額田部の心に人恋しさが募り、彼女のほうから外で警護にあたっていた逆に声をかけた。「ほんの一時でいい、話し相手になってほしい」―と。最初のうちは、そんな恐れ多いこと…と頑なだった逆も、毎日話しかけられるうちに根負けしてしまった。そうするうちに、彼女と話すことが彼にとっても楽しみになっていた。

 「月が、いつも大后さまのことを見守っていてくれます」
 包み込むようにやわらかい、低い声。この声を聞くと心が落ち着く。
 「あなたもね、逆。あなたも、いつも私を守ってくれているわ」
 「いえ、私は何も…」
 逆の言葉を遮るように、額田部は続ける。
 「本当よ。だってあなたは、穴穂部(あなほべ)の魔の手から私を助けてくれた…」
 自分が言ったことに、額田部はその時の恐怖を思い出してしまい、青い顔になってブルッと体を震わせた。

 その事件が起こってから、まだそれほど日が経っていない。
 額田部がいつものように殯宮で一人静かに過ごしていた夜、腹違いの弟であり従兄弟である穴穂部が、こともあろうか喪中の彼女を襲いにかかったのである。「大王妃である額田部が自分のものになれば、次期大王は俺のものだ!」と、浅はかな考えを起こしての行動であった。
 間一髪のところで逆に助けられて何とか事なきを得た額田部は、この一件以降、以前にも増して逆を信頼するようになっていた。

 青ざめた額田部を心配そうに見つめながらも、彼女を安心させるように逆は静かに呟いた。
 「微力でも大后さまのお役に立てているのであれば、これほど嬉しいことはございません」
 逆は不思議だ。彼の言葉を聞くと、つい先程までの不安がスーッと引いていく。額田部の心はすでに平常に戻っていた。
 しばし、二人の間に温かい時間が流れる。
 「ずっとこうして…」
 「え?」
 思わず額田部の口からついて出た台詞を聞き逃した逆が、ほんの少しだけ顔を近づけた。わずか一寸程度。それでも、大后と家臣という立場の二人には、その一寸が一尺のようにも感じられる。額田部は慌てて目線を逸らせた。
 「いいえ、何でもない。もう休ませていただくわ」
 額田部は逆に背を向け、窓際から離れていった。逆は敬礼をしてその姿を送る。麗しい後ろ姿が視界からすっかり消えたところで、ようやく彼は本来の自分の警備場所へと戻った。


 額田部は少しドキドキしていた。既のところで言葉を飲み込んだが、危うく本音を漏らしそうになった自分に動揺している。
 こんな時に私ったら何てことを…。いくら亡くなったとはいえ、私は人妻よ。しかも前の大王の正妃。そんな身分の人間が、軽々しく口にするようなことではないわ……。
 それでも、思わずにはいられなかった。言わずにはいられなかった。

 「ずっとこうして、あなたと一緒にいられたらいいのに」――と。


 月はただ、黙って彼女を見つめていた。




 それから数日が経った。
 いつものように喪に服し、いつものように月を眺めようと立ち上がった時だった。

 ―バタバタバタッ!!

 何かが外で激しく鳴った。
 風が何かを倒したのか?…いや、違う。今日は、それほど風は強く吹いていないはずだ。一体何が……。
 その慌しい音はだんだん大きくなり、宮のほうに近づいてきた。額田部の心に不安がよぎる。
 まさか、また穴穂部では…?
 冷や汗が彼女の背中を流れ、軽い眩暈を覚えて彼女はその場にしゃがみ込んだ。両腕を押さえてギュッと掴む、その手が酷く震えている。
 「大后さま…っ!」
 けれど、窓から聞こえてきた声は恐れていた人物のものではなかった。毎日交わす、聞き慣れた声。しかし今、その声はこの上なく緊迫していた。今まで聞いたことのない逆の声色に、今度は違う不安が彼女を襲う。

 額田部は急いで窓の所まで行き、顔を外に出した。しかし、彼女の目に飛び込んできた逆の姿に、思わず言葉を失ってしまった。彼の衣服はひどく乱れ、表情も別人かと見紛うほど疲れきっている。全速で駈けて来たのであろう、息もあがっている。
 「さ、逆……一体どうしたの?!」
 搾り出すように発した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
 逆は呼吸を整えるように大きく息を吸って、すがるような視線を額田部に向けた。
 「穴穂部皇子が…先日私が大后さまをお守りした行為を逆恨みして、兵を差し向けてきたのです。不穏な空気を察して急いで三諸山中へ逃げたのですが、いつまでも山の中にいるわけにもいかず、こうして大后さまの所へと来てしまいました。身分もわきまえず、申し訳ございません」
 恐縮するように頭を下げる逆。

 穴穂部…なんて奴!自分の愚行を棚に上げて逆を殺そうとするなんて、どこまで馬鹿な男なの!?
 怒りの感情が額田部の心に湧き上がったが、今は逆を逃がすことが先決だ。
 「早く逃げないと追っ手がここへ来てしまうわ。どこか……そうだわ、海石榴市(つばいち)に私の別邸があるの、そこへ逃げなさい。私が一番信頼している侍女に案内させるから」
 額田部はすぐに、侍女の柘(つみ)を呼び付けた。十六になったばかりの美しい少女だ。
 「柘…お願い。逆を連れて、海石榴市の宮へ行ってちょうだい。そして、彼を匿ってほしいの」
 柘は頷くと、殯宮の外にいる逆のもとへと走っていった。二人は顔を合せると互いに会釈をし、無言のまま足早にその場を立ち去った。
 宮には再び静寂が訪れる。額田部は胸に手を当て、大きく深呼吸をした。しかし、何度やっても彼女の動揺が治まることはない。心臓の脈打つ音が、異様なほどに耳に響く。

 あぁ…逆……どうか、どうか無事に逃げ延びて……!

 彼女はただ祈るしかなかった。彼女にできるのはそれしかなかった。



 天はまだ暗い。満月が煌々と光を放つ。それでも時間は刻々と過ぎていく。
 東の空が少しずつ、紺藍から薄藍へと色を変えていた。
 額田部は逆の身を案じ、一睡もせずに祈り続けていた。眠いはずなのに、瞼は一向に重くならない。むしろどんどん冴えているような気がした。

 ―その時。
 カタンと、扉の開く音がした。ハッと顔をそちらのほうに向ける。そこには柘が立っていた。額田部は立ち上がり、彼女のほうへと小走りに近づいた。
 「逆は…逆は大丈夫なの?無事に宮に連れて行くことができた?」
 暫しの沈黙、そして。
 「申し訳ございません、大后さま!」
 俯いていた柘は、次の瞬間ワッと泣き崩れ、額田部に土下座をした。
 「…逆さまを宮にご案内することはできたのですが、着いてすぐに、物部守屋さま率いる兵が宮を包囲してしまって…。逆さまは、自分はもう逃れることはできないからと、私に早く立ち去るようにとおっしゃいました。私はもう恐ろしくて恐ろしくて、どうやってここまで辿り着いたのかも覚えておりません。ただ、宮から逃げる時に聞こえてきた逆さまの断末魔の叫び声だけが、耳から離れないのでございます……」
 その言葉に、額田部は目の前が真っ暗になった。眩暈で倒れそうになったが、柘の手前、辛うじて意識が遠のきそうになるのを踏み止めた。
 「ご苦労でした、柘。あなたは何も悪くないわ、顔を上げなさい」
 涙だけが、次から次へと溢れ出てきた。

 ……穴穂部……許さない、絶対に許さない!!
 もう決めた、誰にも反対はさせない。誰が何と言おうとも、必ず穴穂部を……


  ――― 殺す ―――


 「柘…馬子をここへ呼んできて。今すぐに」
 額田部の瞳に妖しい光が宿った。


 月はもうじき、朝の訪れにその姿を消そうとしている。いつもと変わらずに額田部を黙って見つめる月。いつもと変わらずに温かい光を放つ。
 しかし、彼女は思った。確信した。
 もう二度と、以前と同じ気持ちで月を見上げることはないだろう。もう二度と…月夜を待つことはないだろう…と。


                                                      ― 結 ―