「竹島の法的根拠」      

                                                                              寺岡  誠

 ◎開拓占有権

我が国固有の領土「竹島」とは島根県隠岐島の沖合、西北約百五十七kmの北緯三十七度0九分、東経百三十一度五十五分の地点に位置する東島と西島大小二つの岩礁及びその周囲数十の岩礁からなる樹木の全く無い総面積0・二三平方キロの小島で、島根県隠岐郡五箇村に属する急峻な火山島で形成され日比谷公園よりやや広く、この竹島の旧・日本名は「松島」と呼ばれ現在では韓国が「独島」と呼び不法に武装占拠をしています。

現在の「竹島」つまり「旧名・松島」を我が国固有の領土とする根拠は、元和四年(一六一八年)に鳥取の(米子)大谷吉・村川市兵

衛の両家が、朝鮮半島東岸沖に存在する無人島の「竹島又は別名・磯竹島」と朝鮮や山陰地の漁民達から呼ばれていた現在の「

陵島」への樹木伐採の為に渡海免許を幕府から受けて、その往復帰航途中で松島現在・竹)に立ち寄り鮑の採集やアシカ猟等

に従事経営していました。

その後「竹島」つまり鬱陵島を幕府より直接拝領して壇木・桐木等の木竹伐採や漁場を開拓したが、元禄五年(一六二)頃より朝鮮から出漁が盛んに成り出したので、幕府は対馬藩主の宗氏を通じて朝鮮側に対し出漁禁止を申し入れたが、朝鮮側が一六九四年九月「竹島は自国領で有る。」と主張して交渉は決裂し、その後、幕府は朝鮮とのトラブルを避ける為、当時の竹島(鬱陵島)を一六九六年一月に放棄したのである。

 ◎悪意に満ちた策略

ところが韓国側がこれを現在逆手に悪用して、当時の幕府がこの時「竹島」を放棄したのだから現在の竹島(旧名・松)は韓国領土だと主張しているので有ります。

しかし、一六九四年九月の日朝交渉で朝鮮側の公式外交返書が明記しているように、日本側が放棄した当時の竹島は、その後、名前が変更された「鬱陵島」の事で有り、現在の竹島(旧名・松島)は、鬱陵島(旧名・竹島)から東南約九十二kmに位し、韓国が主張する竹島(現、鬱陵島)とは明らかに別個の島で有る事は明白なので有ります。

明治十四年に入って朝鮮は松島(現在名・竹島)に上陸し、簡素な灯台を日本政府に無断で設置して韓国名で「独島」と呼び名を変えました。

明治三十七年九月、松島でアシカ猟をしていた島根県民の中井養三郎が同島の領土編入並びに貸下願いを内務・外農・商務大臣に提出し、明治三十八年の一月閣議が此れに答えて、二月二十二日に我が国本邦所属の島とし、政府訓令で三月に島根県が告示第五十号により、この島「松島」を竹島と改名し、隠岐島司の所管とする事にして土地台帳へ掲載、漁業権者からの土地の使用料の徴収を行いました。

 ◎改名と誤認海上図

なぜ我が国が本来の日本名「松島」からわざわざトラブルの元と成る「竹島」へと名前を変えたのか!は、長い歴史の中で西欧諸国が紹介した海洋地図に起因するもので、天明九年(一七八九)日本海を北上中のフランス海軍が西方海上から「鬱陵」を発見、発見者の名前を取って「ダジュレー」島と命名しました。

その後、寛政九年(一七九七)に今度はイギリス船が再度「鬱陵島」を発見したとして、船名を取って「アルゴノート」と命名され、フランスとイギリスは同じ島を発見しながらも当時の経緯度測距の曖昧さから、この二つの名前の島が別々の島だと勘違いされて西欧諸国に認識されてしまいました。

天保十一年(一八四0)にシーボルトに依って「日本図」が刊行されダジュレー島(日本名、松島)・アルゴノート島(日本名、)原文ではTAKASIMAとして日本名を併記して、フランスとイギリスが別々の名前を付けた現在の「鬱陵島」が、同じ島だと知らずに世界へ紹介されたので有ります。

その後、寛永二年(一八四九)にフランス船が現在の竹島(旧名・松島)を発見し、船名を取って「リヤンクール島」と命名し、その後日本でも「リャンコ島」と呼ぶ様に成りました。

又、安政元年(一八五四)にロシア軍艦もリヤンクール島(日本名・松島)列岩を実測して「メナライ=オリブッア」列岩と命名し、その際イギリスが発見して命名した「アルゴノート島」は正式に計測した場所緯度には実在せず、一八四九年ダジュレー(日本名・松島)と間違って併記され、シーボルトに拠って紹介された現在の「鬱陵島」のみがその経緯度に存在する事が確認されたのです。

 ◎海上図の正式変更

此れに依り正確な海上図として、朝鮮本土ダジュレー(日本名、松島・現在の鬱陵島)=リヤンクール(日本名、リャンコ島・現在の竹島)=隠岐島日本本土、と改正訂正されたのです。

その後、リャンコ島つまり現在の「竹島」を明確に日本領土だと欧米諸国に認知させる必要が有るので日本名が必要と成り、現在の「鬱陵島」が当時欧米ではダジュレー(日本名、松島)と定着していたので、日本政府は海上図から消された幻の島アルゴノート」が、一時期日本名で「竹島」と認知されていた事からリャンコ島(旧正式名・松島)を改めて「竹島」の名を採用したので有ります。

ところが我が国政府が旧来の「松島」別名(リャンコ島)を改め、正式名称として「竹島」の本土編入を行い同時に欧米諸国に対しても日本固有の領土として宣言をすると朝鮮は此れに対抗し、翌年の明治三十九年に松島(現・竹島)を本邦所属の島、「独島」と記載して宣言を行ったが、その後、朝鮮半島は我が国の全面保護下に置かれた。