◎再編成と変化
昭和59年、北民協加盟が激減し、休眠状態に陥った為「北民協相談役と全愛九州地区長」を兼任の寺岡敏夫氏が再度「北民協」の会長へ復帰し、全愛会議九州地区の活性化と地域団体の育成を主旨として、殉国青年塾・自由青年集団・北州菊守会・日本同盟福岡県本部・大日本維新党九州本部(旧、沖縄正義党)・護国献身隊・国綏誠士会(寺岡 誠・殉青内独立)等の北九州近郊に本部を置く全愛加盟団体と殉国洞海塾(全愛友好団体)を合流させて再編成を行った。然し翌年1月、寺岡敏夫(初代)が病気療養中で有った為、北民協の会長及び全愛会議九州地区長の後継に皇国憲政会々長・井上俊輔氏(現、皇國道友連合総裁)を指名し、その後の活動と発展を託した。
◎別れと襲名
昭和31年、初代が地元組関係者とのトラブル(その後、加藤三之輔氏の仲裁で手打ちをした)で三十代前半に受けた2発の銃撃と刀傷8ケ所の手術等(輸血)が元で、兼ねてより患っていた肝臓が更に悪化し肝臓癌へと移行し、再検査入院後の僅か二ヶ月足らずの昭和60年6月2日、享年57才の若さで志半ばに他界した。
密葬は仏式で行ったが四十九日の法要後、寺岡 誠が初代の遺志を尊重し「招魂祭」と「御霊移し祭」(当家の祭儀様式が神社庁発行の書籍に掲載されている。)を行い神道に改宗し、奥津城(神道墓)を建立した。
同年8月、地元北九州市小倉北区「サンレー紫雲閣」にて全国各地より二千名近くの友人・同志が参列した全愛会議と殉国青年塾合同に依る、全愛会議永世議長「寺岡敏夫大人命」の本葬告別式を執り行った。
葬儀委員長の故荻島峰五郎氏(全愛会議々長)より参列各位への代表挨拶で、寺岡 誠(当時、国綏誠士会々長)が意思を継承し、二代目に就任をするので、初代同様に交誼を頼むと襲名披露。
告別式の終了後、街宣車両二百台余りで、北九州市内一円の追悼街宣を行って初代との別れを惜しんだ。
同年10月1日、寺岡 誠が殉国青年塾と国綏誠士会を合併させ、全愛会議の荻島峰五郎議長並びに岸本力男理事長両先生を当塾の最高顧問として御着任戴き、二代目・殉国青年塾々統の襲名を会葬御礼と併せ、書状を以て全国の諸先輩並びに同憂同志へ披露した。
◎地域活性化(四共闘会議)
昭和62年4月、北九州民族協議会の五代目会長へ就任した寺岡 誠(殉国青年塾)が友好関係に有った呉石謙治会長(大日本興友会)・奥田豊将総長(大日本晃勇社)と協議し、山口県民族協議会・筑豊民族協議会の名称で組織を結成させたのでそれを機に、同年、下関市の韓国系フェリ会社の抗議街宣で合流した折、浦野正夫会長(大日本国誠連合)にも提携を申し出て、翌年、下関市で初会合を開き、九州・山口共闘会議(四共闘)が発足した。
それ以降、北民協も九州各県を始め関東関西等へ、共闘会議並びに全愛等と連携して活動の場を拡大させた。
◎塾外教育部門
平成12年と13年の8月、真玉温泉(大分県)にて、大日本国誠連合総本部「浦野正夫会長」の要請により、両年とも合宿二日目の午後から三時〜四時間二部に分けて「民族派とは何か?」等の勉強会を実施した。
勉強会の講演内容は当時の北九州速報通信社及び、寺岡 誠著書(非売品・特別頒布)等に掲載。
◎全愛会議決議事項「竹島の日」
平成14年11月6日、全愛会議第45回全国大会(東京・九段会館)の席上にて、寺岡 誠(全愛相談役・殉国青年塾々統)が「竹島の日」提唱者として紹介され、趣旨と理由説明を求められた。
依って、韓国に武装占拠された昭和29年の「10月28日」を「竹島の日」として我が国に早期法制化を要請する為には火急なる世論喚起が必要で、その為には国が制定する気が無い現状下に於いては民族派が国に先駆けて「竹島の日」を制定し、例年の定期街宣を以って国民へ広く浸透させる事こそが重要で有ると切実に訴えた。
更に、「韓国の国際法違反や歴史の捏造」と「竹島武装占拠迄の経過及び現状」等の説明を行い、全愛執行部並びに出席団体同志全員に対して提唱趣旨への賛同を御願いと「全国各地の協議団体及び同志に提唱趣意書を郵送する等で呼掛けて、既に韓国大使館並び領事館等に対し平成14年8月〜10月に掛けて全国規模の抗議街宣を実施した経過も説明。
今後は「北方領土の日」と同様に、毎年「竹島の日」「反韓国デー」の名称で全国統一抗議街宣を全愛会議が主導して行うように強く訴えた事により、今後は「10月28日」を「竹島の日」と定め、全愛会議の最重点課題にすると全会一致で採択された。
◎青年思想研修会
平成15年9月、苦菩提山の修練場にて治安確立同志会総本部(福岡県)等との合同合宿で、二日間に渡り勉強会を実施した。
平成16年1月14日