北九州民族協議会
 
                          創立者 殉国青年塾初代塾統 寺岡 敏夫                    
「沿革」
昭和50年、殉国青年塾(初代塾統・寺岡敏夫氏)の河野相談役(当時)より紹介で
福岡県田川市にて「大日本戮粋社」の結成に立ち合い、続いて同県鞍手郡に「大
日本天照会」を発会させた。
その後、天照会々長が町議選に出馬して当選を果たした為、翌年、寺岡敏夫氏の
指導の元に天照会より独立した植村政治氏が、同郡小竹町にて「大日本菊政党」
を設立させた。
昭和53年、寺岡敏夫氏が全愛会議に所属していた関係から、日本同盟宮崎県本
部の鬼束春樹氏より、北九州の吉田重喜氏を預けるので民族派として育成して欲し
いと要請され、北九州市八幡区に「殉国国斂塾」を発会させた。
昭和56年3月地元北九州市戸畑区に在住する寺岡敏夫氏の往年の友人で合った
田中幸登氏に民族運動への参加を勧めて「殉国洞海塾」を発会させた。
 
「北民設立」
それを機に北九州市近郊の団体の結束を寺岡氏全愛会議永世議長)が地域友好
団体に呼び掛けて「北九州民族協議会」略称、北民協)を設立し、初代会長に就
任した。
加盟団体は「殉国洞海塾・殉国国斂塾・日本安政塾・大日本菊政党・殉国青年塾」の5団体で有るが昭和維新断行の強い意志と信念を以て結成と同時に北民は活発に行動を実践し、更に同志として殉国誠士塾々頭・上野 誠氏(福岡県遠賀郡)がその後当会へ加盟した。
又、「治安確立同士会(福岡県行橋市)・青論社(福岡県博多区)・愛国宣戦社(福岡県行橋市)・日本青年社(大分県)・大日本生産党(佐賀県)・猶存社(福岡県)等の友誼団体と共に提携して全国的な活動を開始した。
57年、寺岡敏夫氏が全愛会議九州地区長として多忙な為、田中幸登氏に北民の会長を委ね、自身は同会の相談役に退いて殉国青年塾の相談役で在った、波多孝裕氏(現在、日本維新党九州本部長)の自社ビル内に当塾の本部と全愛九州事務局を移し、同時に青少年の健全なる育成を目指して鍛錬空手道場「正道館」師範代・加山二郎氏で開設披露と併せて、全国より多数の同志参加の元で祝賀会を盛大に行った。
その後、当塾の関連団体「殉国青年塾・殉国国斂塾・殉国興風社・国綏誠士会「寺岡 誠創立者、寺岡敏夫氏の長男)
殉国政祐会」等で殉国大和連合(構成員80名・街宣車大小10台)を結成した。
又、寺岡氏(殉国青年塾初代塾統)が設立に直接携わった「大日本興友会(山口県)並びに正気塾(長崎県)と沖縄正義党(沖縄県)」に併せ「仁義社・日の丸会・興風社・青年愛国党・日本革新党・日本青年社・国粋青年隊・日本皇民党・全愛会議・亜細亜民族同盟等と共に活動を提携し、全国的に街宣活動を活発化させて行った。


 
靖国神社にて井上俊輔氏と寺岡 誠
「再編成」
しかし昭和60年、北民の加盟団体の大半が解散して激減し、休眠状態に陥った為、寺岡敏夫氏が「殉国大和連合」を解消して「北九州民族協議会」の三代目会長として再就任し、北九州市近郊の全愛会議に加盟する民族派団体に呼び掛けて、全愛会議九州地区の発展と地域団体の結束を主旨に殉国青年塾・皇國憲政会・皇國道友連合北州菊守会・自由青年集団・護国献身隊(元、日本安政塾)・国綏誠士会(寺岡 誠)・殉国洞海塾・日本同盟福岡県本部」等で再編成を行った。
然し、寺岡敏夫氏が病気療養中で有った為、翌61年10月に全愛会議九州地区と北九州民族協議会の純粋成る民族運動の邁進を願い、代表後継者に全愛九州地区次長で在った皇國道友連合の井上俊輔総裁を指名して今後「北民」の活動と発展を託した。