太田市天神山古墳2

東海からやって来た開拓民が開拓民が築いた東毛地域のムラはやがて勢力を拡大して、「毛野国」全域で主導的な役割を果たすようになる。支配を不動にしたのが別所茶臼古墳(太田市別所町)の首長で、太田天神山古墳の被葬者はその後継者と見られる。

太田天神山古墳の大王は5世紀半ば、西毛に君臨した浅間山古墳(高崎市倉賀野町)の強大な勢力を統合したことによって、毛野政権の王の地位を確立した。

まさに毛野国は絶頂期を迎えたと言える。ところが、太田天神山古墳が造られた後、太田市域から巨大な前方後円墳は姿を消してしまう。それはなぜか。要因には諸説あるが、強大になりすぎた毛野国に対してヤマト政権の規制、干渉が強まったと見る研究者も少なくない。

そのきかっけと考えられる出来事が「日本書紀」の安閑天皇の元年(534年)の条に記されている「武蔵国造(くにのみやつこ)」の乱だ。

「武蔵国造(くにのみやつこ)」の乱とは、日本書紀には武蔵国の笠原直 使主(おみ)と同族小杵(おき)が、国造の地位を争い、小杵(おき)(南武蔵勢力・埼玉)が上毛野君(小熊おぐま)(天神山古墳勢力)に援助を要請して笠原直 使主(おみ(北武蔵勢力)の殺害をもくろんだ。

笠原直 使主(おみ)(北武蔵勢力・埼玉)から救いを求められたヤマト政権は、使主(おみ)を国造とする裁断を下して小杵(おき)(南武蔵勢力・埼玉)を征伐したといった内容が記されている。

使主(おみ)を北武蔵、小杵(おぎ)を南武蔵、小熊(おぐま)を天神山古墳の勢力と捉えると、日本書紀の内容とも重なって見えてくる。
4〜5世紀の武蔵国と毛野国の古墳の分布や消長をみると武蔵国造(くにみやつこ)の乱が、実際にあたと見るべきではないかと考えられる。
乱の後には、天皇の直轄地「緑野屯倉(みどのみやけ)」が藤岡市付近にせってされている。太田天神山古墳の勢力がヤマト王権から制裁を受けて衰退し、毛野国の権力が東毛から西毛へ移ったという推測も成り立ちます。当初は、ヤマト政権は東国を支配していく上で、多少まとまりのある大きな同盟国が必要だった。しかし、その勢力が強大になりすぎて、危機感を抱いた。武蔵国造の乱を口実にして毛野国の力を抑え込んだという可能性が高いのではないでしょうか。

南武蔵で古墳の規模が衰えていくと、北武蔵(行田市等)で大規模な埼玉古墳群が出現。太田市地域では太田天神山古墳以降、一時は前方後円墳が消滅する。一方では、西毛で保渡田古墳群(高崎市保渡田町)が築造されている。絶頂期には、栃木県の鬼怒川以西支配権を広げたとされる毛野国は、この王国は武蔵国造の乱が
引き金となって、後に分国され上毛野と下野野国が誕生したともいわれている。


 
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