◎飛躍と節目
昭和48年「殉国青年塾・結成八周年」小倉ホテル(北九州)にて、全国の同友同志が多数列席して盛大に披露宴を催した。それを縁に治安確立同志会・青論社・大日本愛国党・猷存社・愛国宣戦社・沖縄正義党・青年愛国党・国粋青年隊・松魂塾・国士塾・日本同盟・日本青年社・大日本生産党・皇民党・日本革新党等、多方面の民族派団体との交流が更に深まり、それ以降友好団体と共に全国各地へと活動の場を拡大させた。
◎大同団結
その後、西日本地区の総結集を目指した「西日本愛国連合」や「薩長土連合・理事長、稲本虎翁氏」(現、西日本獅子の会)等にも加盟した。
◎過激派との論戦
昭和53年10月、寺岡 誠が雄弁論客で知られた、故河野福太郎氏(日本同盟・熊本県)の指導を受けて情宣局長と成り、放射線漏れ事故を起こした我が国初の原子力船「むつ」の廃船を求める過激派・左翼労組等三万人抗議デモ集会を前にして、怯む事無く佐世保駅前にて民族派を代表して街宣車上に立ち、将来石油資源の枯渇を考慮し「むつ」の安全性と原子力問題及び核の平和利用を市民に訴え、更に廃船を求める反対派の不当性を痛烈に批判する等、1時間に及ぶ本格的な初演説と論戦を行った。
 
◎憂国講演会
昭和54年、紫水会館(北九州)にて、俳優の故鶴田浩二氏を講師に
招いて題名を
「憂国・現況のまま時代が推移すれば日本は滅びる」講演と懇親会を催した。
 
◎地元の結束
昭和56年、初代が友人の田中幸登氏に勧めて殉国洞海塾(北九州)
を発足させた。
続いて殉国国斂塾(北九州)殉国誠士塾(福岡県芦屋)大日本菊政党(福岡県小竹
町)日本安政塾(北九州)等の近郊団体を結集させて、「北九州民族協議会」を設
立し、寺岡敏夫(当塾の初代塾統)が初代会長に就任した。
又、提携団体として全愛会議加盟の大日本興友会々長・呉石謙治氏(山口県)
びに大日本国誠連合加盟の大日本政鈴会(山口県)の団体設立にも初代が深く
わり、以来現在も良好な関係に有る。
◎組織拡充
昭和57年6月、北民協とは別に「殉国大和連合」の組織名の元に当塾関連団体を結集し、構成員約80名と街宣車輌大小(10台)等で組織の拡充を計り、殉青本部ビル1階には青少年の養成修練空手手道場「正道館」等も開設して、全国各地より民族派の同志を招待して盛大に披露宴を催した。
◎活動成果
昭和58年6月、長崎県島原市での「日教組大会」では、開催前の一ヶ月間を全愛会議九州地区は基より、九州近郊の民族派団体の協力を得て
連日の大会阻止行動街宣を行った事により、史上初
の本大会場を分裂開催に迄追い込んだ。
◎天誅と発足
昭和59年8月、「北方領土奪還・日教組打倒」を掲げた看板の撤去と破棄処分の命令を下した長崎県大村地裁に対して、謝罪を求める為、関係判事を事務所内に監禁して拳銃で立て篭もった事件、及び「昭和天皇陛下」が御闘病中で有るにも係わらず、卑劣な「戦争犯罪論」で天皇批判を繰り返した本島 等元長崎市長に対し「天誅」を下した「正気塾」(塾長・故、若島征四郎氏・長崎)の結成には初代が直接関わった。 
昭和54年12月3日〜4日「李 王朝」へ、皇族「梨本宮家」より嫁がれた「李 方子様」が、韓国の身体障害児の社会復帰を目指す為、支援活動を趣旨とした福祉法人「明恵会」(東京)を通じて御皇室にも関わりが深かった「四季ケ丘」(現、北九州市門司区市営植物園)へ御立ちよりに成られた際、私的な日本訪問の為、当局警護が一切行われなかった事から万が一を想定し、日本滞在中の極秘任務として「方子様」の身辺警護を元、園長の矢野徳助氏より当塾が緊急要請を受け、当時・組織局長の寺岡 誠が単独48時間の特別警護任務を賜った。翌日、韓国へ戻られる為、妃殿下(方子様)の希望に依り福岡県岡垣町の松原海岸で昼食、妃殿下と記念撮影後に裏街道を抜けて空港へ急いだが、途中警ら中の県警の白バイに停止を求められたので事情を説明し、一部区間の先導を戴き空港まで御送り申し上げた。
待合室にて妃殿下より「今後も日本の為に頑張って下さい。」との励ましの御言葉と併せて直筆署名入りの色紙額と御礼を賜った。
           (現在、当家の家宝として保存している。)   
◎名誉有る経歴
二代目塾統 寺岡  
 李 方子 
  (まさ子様)