「北朝鮮より救出せよ!」

               寺岡  誠

 

今から30年近くにも遡るが、北九州市の洞海湾に北朝鮮の貨物船「守根号」が入港予定で有るとの情報を得た事に関連し、当塾がテレビや新聞等で大きく報道された事が有った。

 それは、昭和50年9月2日、佐賀県呼子の日本漁船「松生丸」が公海上で、北朝鮮の武装集団に銃撃を受け2名が射殺・2名重傷・拿捕された事件に関するものである。

 当然ながら当塾も救出を目指し、あらゆる手段を尽くす為、私も寺岡敏夫初代塾統(全愛会議永世議長・北九州民族協議会創立者)より9月7日に指示を受け、北九州市小倉北区に在る「朝鮮総連」の団長と直ちに接触を図り、本国(北朝鮮)へ拉致船員の即時釈放と船舶返還の要請と交渉を開始した。

 そうした中、北九州市の港湾へ北朝鮮船舶入港の情報を察知した

当塾は、直ちに真否の確認作業に移った。

 すると2日後、地元「若松港」へ入港するとの情報を得たので、直ち

に受入業者を割り出し、入港前日「SK運輸・仮名」に対し北朝鮮側

との契約解除を殉国青年塾・青論社・大日本生産党等、六団体と共

要求したが、現地支社では回答が出せ無いと難色を示した為、直

に寺岡敏夫(殉青初代)が全日本愛国者団体会議の本部(東京)

電話をかけ、SK本社(東京)に対し北朝鮮側との契約解除に応じ

様、直ちに抗議折衝の行動要請を行った。

 東京本部からの返答を待つ間、現地若松区の同社周辺及び小倉・

畑にて抗議街宣を繰り返し、8日の夕刻は、各団体一旦引き揚げ

て態勢を整え出直す事にした。

 

 一日目(9日)、前日に続き青論社・大日本生産党等と若戸大橋入口

(戸畑側)で合流して現地へ向かう為に若戸大橋を通過中、既に北朝

鮮の貨物船が洞海湾へ進入して我々の真下を通過したので、絶対に

入港と荷揚げは阻止するとの決意で若松港へ急いだ。

 現地「若松水上署前では警備当局やマスコミ等も現場におり、海上保安庁も拳銃を携帯する等で、物々しい雰囲気に包まれる中、同湾の中程に守根号(北朝鮮貨物船)が停船して上陸準備の構えを見せた。

 しかし我々の強硬姿勢で荷受けの業者との接岸手続きが出来ず、我々の「直ちに北朝鮮へ帰れ!松生丸の乗船員と船を返すまで荷揚げは絶対に許さない!」とのボリュウムを最大限に上げた怒号が繰り返される中、現場周辺に動きが無いまま、守根号は海保巡視艇に守られながらも我々と睨み合いが続いた。

 荷揚げ予定が10日で、9日も夕刻過ぎまで動きが無い為、同湾を挟んで戸畑側と若松側の両岸に九州民族青年会議の街宣車数台と、私以下、殉国青年塾の隊員10名が現地に残って見張る事にし、他の団体は翌朝再港を約して一旦引き揚げさせた。

 

二日目(10日)、前日の野営組と合わせ深夜より早朝に駆けつけた友誼団体「猶存社九州本部・愛国戦線同盟・大日本生産党佐賀県・青論者・日本青年社佐賀県支部・日本革新党福岡県支部・敬神党・祖国社・天照会・日本愛国同志会・日本大衆党・福智村塾」等と、午前七時に合流し、対岸の港湾施設(戸畑区側)からの上陸も完全阻止を図る為、16台の街宣車で同湾両岸壁に分散して挟み、守根号に対して、北朝鮮に抑留されている船員の「即時釈放と謝罪及び船舶返還」の要求を全車で一斉に放送開始し、北朝鮮本国へ伝達する様に抗議と要求を繰り返した。

 その後、海保責任者が「民間船でも有るし、船泊料が多額なので貨物船側が困っている」と、我々に抗議中止を要請して来たが、逆に「我々は北朝鮮に2名が銃殺された上、無実の罪で拉致されている日本人の救出及び弔慰金の支払い発表が実現するまでは、絶対に引かないし、逮捕は承知の覚悟だ!北朝鮮の船員が1人でも上陸を図れば殺してでも阻止をする」と、初代塾統が返答をすると、もう少し冷静に成る様にと警備責任者が諌めに来た。