皇室典範を制定条文化したのは明治維新以降の事で有って、我が国建国以来二千六百七十年余りの御皇室の歴史から見れば、本のつい最近の出来事なのです。
又、皇室典範の改正論議を行う前に、天皇の御位を継承すると言う本来の意味を先ず理解をする事が最も重要で有ります。
天皇の本質とは即ち神で有り、天祖直系の子孫が大嘗祭を介して天照大神に祭宮へ御降霊戴いて、天皇の御聖魂に鎮座を賜り、天孫降臨の勅命を受けた邇邇芸命(ニニギノミコト)が天照大神依り授り、歴代天皇が護り継いでおられる斉場の稲穂等の五穀を、禊払われた主基及び悠基の斉田にて刈り入れ、八百万神祇への御献撰(御酒・御食事)としてお供えし、神祇が食されて霊力が宿った御供物を天皇も頂く、つまり神祇と共食を成される事で天皇に霊力が供わり、又、大嘗祭の一陽来復に依る神事で日神(天照大神)の霊力の再生回復が行われた事に依り、日嗣の位から皇位への御位に代わられる事に為られるのです。
つまり一世一代限りの大礼祭(大嘗祭)を行う事で五穀豊饒を司る穀霊神(邇邇芸命への神格化)が天皇へ継承され、その御聖魂には天照大神が鎮座を為されて居られるのです。
それ等の神事に依り、天皇が皇位を継承して神格化され「人の姿を借りて姿を現した神」、所謂人々の目に見える「現人神」として、世に顕現されるので有ります。
依って皇位継承とは穀霊神(邇邇芸命の霊位)の継承を意味する事で有って、日継の御印で有る処の三種の神器「草薙の剣・勾玉・八咫の鏡」を御手元に置く事の出来る天祖直系の子孫(皇族)が御存在戴ければ、現世の容姿性別(下記条件の基)に関わりは無く、今日の様に天皇家に内親王様が御誕生成されていようとも皇位継承(天皇即位)問題には、本来は何等の障害も発生しないので有ります。
但し、此の即位は皇室典範(第三章)摂政・第十七条六項に基付く緊急避難的な皇位継承(天皇直親・内親王様)で
有る事が絶対条件で、内親王様が将来に亘り結婚をしない場合か、或は旧皇族男子(旧、宮家の復活)と御婚姻を成さ
れて皇族籍に留まり、皇族内に親王様の御生誕を願う間の「摂政天皇」で無ければ皇統一系は絶やされる事に成る。
依って皇位継承問題に対し、本来は宮内庁長官や国会議員を始め我々国民が軽々に口を挟む事の出来ない神聖成る御皇室の儀式で有ります。
その神聖成る御皇室や天皇即位問題を国民が話題とする様に変貌したのは、先の大戦後、占領軍が亡国憲法を押し付けて、主権を天皇から奪い取って国民へばら撒き、占領政策の一環として天皇と国民との深い絆を断ち切る事を目的として、国家神道の完全解体を目指し、マッカーサー連合軍司令官が、昭和天皇に対して「人間宣言」を発する様に強制をした事に全てが起因するのです。
依って、今回の様に皇太子妃殿下の雅子様への世継(日嗣の皇子)の出生を優先に宮内庁役人が図る目的で、皇室の重要成る外交訪問から雅子様を必要以上に規制し、雅子様の御成婚前の御得意とされた外交官のキャリヤを否定し、更に宮家以外から皇室入りを成された雅子様に対する人権侵害が少なからず有った事だけは否めないで有ろうと思う。
この問題は事もすれば、国民が挙って慶祝された愛子様(内親王様)の出生と人格否定にも繋がり兼ねません。
本来からすれば、皇位継承問題を我々国民や国会議員等の役人が審議や関わりを持って御皇室の神聖な問題を解決しよう等と、破廉恥で不敬な議論を世俗的に出す事態が、主権在民の亡国憲法で驕り高ぶった己の立場を全く理解して居ない者の厚顔無恥な妄言で有ると言わざるを得ません。
正に、高まる改正論議や宮内庁の天皇家に対する姿勢は、下剋上的な「天に唾吐く」行為以外の何物でも無く、ましてや今上陛下が御健在で在らされ、日嗣の皇太子様並びに秋篠宮様の御存在をも全く無視した「皇位継承論議」は、現時点では妄言で有ると断罪せざるを得ません。
先ず、皇位継承が行われると言う事は天皇の崩御が前提に有ると言う認識と、天皇の御健在中に問題にすると言う言葉の重大(非礼・不敬)さに気付かずに真顔で話題を持ち出しているので有ろうか?
皇位継承問題で、御皇室の継続を国民が心配する気持ちを無視する訳では有りませんが、その前にもう少し、天皇の真の御姿と御皇室の存在意義を関係省庁は国民に説明し、知識を高めるべきで有る。
それ等全てを政府が行い、国民を理解させた上での純粋な国民の願いとして御皇室存在の不安を取り除くとの観点と、善意からの条文改正論議(旧皇族男子、旧宮家の復活等)に対しては、私は反対を唱える気は毛頭無い。