「憂国忌」三十四年祭
殉国青年塾広報部
本年十一月二十五日、北九州市内に於いても三島由紀夫・森田必勝両憂国烈士の御霊を偲ぶ為「憂国祭」が小倉北区古船場の「菅原神社」にて大神徳彰宮司祭主の元で午前十一時より挙行された。
式殿に於いては、三島由紀夫憂国烈士の自決直前の
「遺影」が祭壇に掲げられ、地元民族派の有志が参列
して真剣な面持ちの中「憂国祭」が厳粛に執り行われ
た。
「憂国祭」終了後、故、三島由紀夫氏が当日読み上げ
た「檄文」を寺岡誠が代読し「三島事件・三島精神」
の時代的な背景や趣旨解説等の講義も同時に行った。
「憂国祭」とは、故三島由紀夫氏を始めとする「楯
の会」の会員が昭和四十五年十一月二十五日に東京都
新宿区市ヶ谷本村町「四十二陸上自衛隊」東部方面総
監部に於いて、総監・益田 兼利(当時.55才)を拘束
し、二階総監部バルコニーにて建軍の正規軍隊創設を
目指す為、自衛隊の蜂起を訴えた「三島事件」の決起
主旨「檄文」の遺志継承を誓うもので有る。
この事件は、故、三島由紀夫氏が自衛隊員に共鳴を
訴えたが、余りにも不甲斐無い反応とサラリーマン化
した士気の低さに悲観し、「楯の会」の三島由紀夫隊
長と森田必勝班長両名は自らの死を以って決起意思と
信念の強さを証明する為、バルコニーから総監室へ戻
った直後、「憂国の同志」と信じる自衛隊員の「蜂起
再考」を促す為、益田総監の目の前で「楯の会」隊員
に介錯させて割腹自殺を決行した訳で有る。
以後、今日まで三十四年の歳月が過ぎ去り、時代の流れと共に事件を知ら無い若い世代が大半を占める等、現代に於いては既に国民意識の中からは完全に、この悲痛な「憂国の雄叫び」が忘れ去られ様としている。
更に、今日の興醒めした時代的背景に加え、民俗意識の希薄はおろか「愛国心」迄が衰退の一途を辿る現状に対して危惧する「憂国の同志」が集い、自戒の意味をも兼ねて「三島精神」の遺志継承を念頭に「憂国祭」が各地に於いても例年行われている。
「三島精神」とは「忠義と報国は武士の本分で有って、日本男子(益荒男)は如何に皇国の為、何を成すべきか!」と士(もののふ)の生き様を、尊い一命を以って国民に示した「遺言」で有る。
「三島事件」が起きた当時の背景は、連合赤軍や核マル派等の極左暴力集団が日本の共産革命を画策し、敵と見做された大企業(資本主義の代表格)の本社等を爆破する等、爆弾闘争が連日繰り返され、全く罪の無い一般民間人が多数殺戮される等、国民の不安と怒りも治安当局に対しては、既に頂点に達していた時代で有って、三島事件は起きるべくして起きたので有る。